「自己とは何か」

自分ってどんな人?

そう悩んだことのある方も多いのではないでしょうか。

アイデンティティ・自己統一性という言葉も一般的ですし

「自己分析」は就活では必ず聞く言葉ですよね。

なんか胡散臭い口調になりましたが(笑)

「自己」に対する私のスタンスをつらつらと書いていきたいと思います。

 

と、言いながらまずは

内田樹のこの文章を読んでいただきたいです。

(下に簡単な要約を載せます。) 
blog.tatsuru.com

『「私」は私の多重人格のひとつにすぎない 』というタイトルで

中学の授業で出会い強い衝撃を受けました。

【要約】

同じ人物の中に「人格」は複数ある

・誰に対するかで「人格」を使い分ける

  (=人格を「チューニング」する)

・しかし、現在は根底に「統一された自己」が存在するはずという風潮が強い。

・だから、TPOによって「人格」を使い分ける能力、柔軟性がなくなってきている。

・「統一された自己」の思想に捕らわれ、どの場面でも共通する人格を抽出すると「もっとも傷つきやすく、もっとも耐性に欠け、もっとも柔軟性を欠いた私」になってしまう。

・この「統一された自己」思想とそこから生じた「もっとも傷つき~私」が学級崩壊や仕事で怒られて逆ギレする人の原因

 

要は、

統一された自己なんてないよ

場面場面によって人は変わるよ

ってか変えていくだけの柔軟性もってこうよ

といった感じでしょうか。

 

私も仲の良い友達の前では甘えるので 姫気質と言われますが

サークルではちゃきちゃきして お母さんと言われますし。

皆さんも、自覚があるかどうかはおいておいて、キャラの使い分けをしてるのでは?

 

ということで、自分=〇〇みたいなのはないんですよ。

関わる相手と時間

(後者は内田樹の文章にはないですが)によって変わります。

それは他者も一緒で、例えば、

佐藤さん=優しい という一つの揺るがぬ土台が有るのではなく

佐藤さん={優しい、いじわる、しっかりしている、優しい、皮肉っぽい、...}

のように、様々な要素を含んだ存在なんです。

(優しい×2には意味があります。)

これ、ビーズクッション理論と私は呼んでいます。

そのことに関してはまた文章を書きたいと思います。

 

「人が変わった」なんて言いますが、

それはその人の「違う面が見えた」ってだけなので。

 

これはアイドルなど いわゆる"推し"に対して

なんか違う!前の〇〇君はこうだったのに!がっかり

みたいなのとも共通してると思うんですよね。

 

「統一された自己」なんてなくて

それこそ「本当の自分」なんてやつもなくて

あるとしたら、何かと関わるごとに変わる形の連続だと思います。

自分も他人も様々な人格、キャラがあって、

矛盾するようなことも起きますが、

「自己」とはそのような流動的なものなのではないでしょうか。

 

上で述べた「ビーズクッション理論」と

「統一された自己」が西洋的というか一神教的に感じるお話を

また時間があるときに書きたいと思います。

 

追記:

引用した内田樹のブログのフェミニズムの部分に関しては異論を唱えたいと思います。

「断片化された『私』を便宜的に演じる」ことができないと言っていますが、

それは「学校・集団での自分」を演じない/られないこと等とは違うと思うんです。

(最近は揺らいでますが)学校は義務、

"女性の役割"は...義務じゃなくない?性別関係なくない??

といった感じです。

根幹にある

演じる必要性、チューニングする必要性

に対する疑問です。

女性にだけ求められる「断片化された『私』」は

「便宜的に演じ」なくてはいけないのか?

強要されるものではないよな?

自由選択だよね?

じゃあ、自由に選択できるようにしましょう!

これがジェンダー問題に対する姿勢だと、一女子大生は思います。

 

20年前の文章なので古いのかもしれないですけど。

あ、内田樹を追っている訳じゃないので

今現在はどんな思想を持っているのか知らないです。。。

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